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荒海の思い出(「悲喜交々北鮮紀行」要録)

「荒海の思い出」
 ※2003(H15).2.11日記(マイ・ビデオ「悲喜交々北鮮紀行」抜粋記述)

ブログの友、梨名さんへ

★前文(一部省略)

さて、北海道の話、実に面白かったなぁ…。そして後日談で船酔いの描写が出てきたでしょ。
それでまた思い出しちゃいましたよ。北朝鮮へ行ったときの日本海の荒天ぶりを…。

★束の間の平和なりしも、日本海波高し

それは、あの悪評高き金丸の爺さんが、国辱的約束をして帰国した1991年夏の事でした。
朝日新聞に広告を出した旅行社から普通の観光と確かめ、百聞は一見に如かずと参加したツアー
でしたが、いざフタを開けてみると、日教組の蒔枝元委員長等が団長となった日朝友好団体の
中に組み込まれ、嫌応無しにサクラにされて新潟港を船出しました。

船は確か「三池淵号」と言う名で、今話題の船と殆ど同型の姉妹船でした。だが新潟を出ると直ぐ
荒れ始めて、移民船同様の蚕棚が並ぶ船内はモウ大変でした。相当大型なのに船は木の葉のようで、
生まれて始めて目にした波高十数メートルもの大波の、頂きから波間に突き落とされたり
持ち上げられたりで、数時間はもう奈落の底を彷徨う思いでした。
このためツアーメイトの
殆どが、例外なくゲロしてしまいましたが、吐き終わったら不思議なくらいスッキリして、佐渡沖で
風待ちしながら夕食をとりました。
朝鮮式のテンコ盛り御飯や、沢山のご馳走をオカワリして食べた事がウソのようです。
あの頃は俺もマダマダ若かったなぁとの思いで、何だか胸が熱くなっちゃったなぁ!

それはともあれ、船酔いは指突っ込んでも吐いてしまうに限りますね。勿論、個人差はあるでしょう
から、保証の限りではありませんが…

★格安ながら、準国賓待遇で巡った北鮮各地の旅

まあ、そんなこんなの出港当日ではありましたが、翌朝からは快晴に恵まれ、文字どうり湖のように
静けさを取り戻した一望千里の日本海を渡り、三日目の昼ころ元山に到着しました。

約一週間の旅でしたが、格安だから仕方がないとも思われた往復の船室のお粗末さ以外、宿も食事も
乗り物も、日教組のお墨付きの御蔭か、待遇だけは準国賓待遇でした。
また極めて短時日の間に、
首都平壌駅前にあるツインタワービル「高麗ホテル」をベースに、すべて特別仕立ての列車や飛行機等
を使い、遥かな南北国境や日本海から黄海の磯辺まで探訪させてもらえたのも、彼等の企画に便乗させて
もらった奇貨と考えべきかもしれません。

だが、何処へ行くにもマンツーマンで隠れた目が光っていて気が休まらない旅でもありました。
宿舎近くの民家に道を聞きに入っても、すぐそこの駅へ切符を買いに行っても、何処に居たのか必ず男が
現れ、何をしようとしているのかと問いかけられるのです。また、彼等の都合に合わせ当初の旅程も一日
短縮させられ、これにクレームを付けた一部の旅友は、帰国後に旅行者から違約金を払わせてやったとも
聞きました。
でも、拉致され袋詰めにされて泣く泣く日本海を渡り帰国できなかった人も数知れぬとの噂もあった国へ
の旅です。格安な大名旅行が出来て、得がたい思い出や予期せぬ収穫も沢山あったのだから、無事に帰れた
だけでもラッキーだったと思います。
だって、ああした旅だったからこそ、その後は逮捕抑留されてしまった旅行者まで出たアノ国で、連れて
行かれた所だけではあっても、事細かにビデオでの記録が残せました。

なお旅の終わりに近く行われた三十八度線見学の旅だけは、前日の白頭山行きで疲れた事を理由に不参加
として平壌のホテルに残っ私達は、なんと翌日、当局差し回しのガイドと運転手つきベンツで大同江に
沿って下り、黄海に面した南浦閘門の見学や地下鉄乗車等を、同行した仲間4人だけで実現したのでした。
実は、国境行きを不参加とした十数人の殆どは、前夜行われた迎賓館での答礼晩餐会で「明日は旅の途中の
開城で、南北統一と書いた襷を掛け太鼓を叩いて市街をデモ行進させられるらしい…」との情報が流れた
ことを知って平壌に残ったという訳。
それでホテルで朝食の時に
隣り合った京都のお寺の住職さんから「今日どうする?」と聞かれ、「出来たら、この国が人海作戦で
大同江を堰き止めて作った南浦閘門を見て見たいんだ」と話しました。それで「それは私も是非行って
見たい」と彼も意気投合して、直ぐ平壌駅へ向かいました。
ところが切符買おうとしていたら又々例の人民服に金日成バッジの男が現れ「貴方がたでは切符は買え
ませんよ」と言う。「それならタクシーかレンタカーでも…」と言う私に、彼は「この国ではそんな事は
無理です。でも、なぜそんなに行きたいのですか?」と彼が聞くので、「貴方の国がスエズ運河以上の
難工事を克服したと宣伝しているでしょう。その鉄道とドライブウエイで広い河口の両岸を結ぶ長大な
閘門橋こそ、これから観光立国を目指すと言う貴国の誇りでしょう。ぜひ見たいですよ」と煽てる
ように訴えてみました。
すると暫し考えた彼は「十時半まで待てますか。車を私が何とか都合してみましょう。よろしければ
ホテルのロビーで待っていてください」と言い出し、半信半疑で待った結果、約束どうり彼が現れ、
この瓢箪から駒のドライブが正夢となったのでした。

こうして南浦閘門に私達が着いて見学を終わった時、丁度サイレンが鳴って小さな船が人造湖の上流
から閘門に近づき、黄海へと出て行きましたが、あれは昨年スパイ船として追跡され撃沈された船に
一寸似ていたように思われます。なぜって最近のニュースで、あの船がこの港から出航したことが
米国の衛星写真の軌跡で割り出し確認されたと確か聞いたからです。
ともあれこうして陽光に美しく輝く黄海の畔で、私達だけが独自の至福の時を過ごしていた頃、韓国に
近い開城の町では何と土砂降りのだったらしく、誇り高き日教組の先生方を始めとする数百人の一行は、
雨を中を噂たがわぬ姿で威風堂々の市街行進をされたと後で聞き、何だか申し訳ないような気がして
きました。でも、この旅で親しくなった某学校の先生は、夏の盛りだったのに寒くて風邪をひきそう
だったと内々こぼしておりましたっけ。

……閑話休題……

既に十数年も過ぎた昔の旅ながら、あの時の印象も今テレビなどで紹介される印象も、敗色濃くなった
戦時下の日本の姿が、その侭この国に凝固してしまったような印象を受け、唯々気の毒に思えてなら
ない私です。
支配者が日本から当時は馬賊と呼ばれていた金一家を首領と仰ぐ、名前だけの「民主主義共和国」と
なっただけですからね。日本の敗戦から早くも六十年近い月日が経つのに、大半の民衆の生活は往時の
侭どころか、更なる飢餓生活を余儀なくされ、思想・行動の自由まで無いとなれば、平和ボケした今の
日本人には到底我慢できないだろうと思いますね。
同じ民族の支配者なら、裏でどんなエゲツナイ非人道的政治が行われていようと、誇り高い彼等ゆえに
我慢ができるし道徳的にも許せるとでも考えているのでしょうか?
第一「民主主義共和国」にも、「共産主義」国家にも、その国の首長が世襲され、彼等が今も軽蔑して
やまない昔の日本の姿そのままに神格化させた金親子の写真が、何処も彼処もベタベタ掲げられて
いるなんて、どう考えても私には理解しかねますね。

まあ旅の細々した思い出は、今日一日の制限字数内では到底語りつくせません。また折を見て続編・
続々編と書き足すつもりですが、今日はここまで。
なお先に記した記録ビデオを、確か「悲喜交々北鮮紀行」と
名付けたものでした。
パスポートサイズのカメラが出たばかりの頃で、機械も腕も現在とはクラブべきもなく、ロクに
編集もしてないラッシュ版と言った感じですが、今でも珍しく貴重な場面が沢山収録されています。
時間と機会さえあれば、ぜひご覧願いたいもの…と言いたいところですが、楽天のお友達は皆さん
住所氏名不明とあって残念至極。では、よい夢路を…。〔誠〕





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